「飲み放題」は居酒屋等の飲食店にとって「濡れ手に粟の商売」のように思われて来た。確かにここ10数年、全国津々浦々にまでどこもかしこも踊りに踊っていた宴会の「謳い文句」であり「用語」であった。しかし、同時に混迷の時代、不況の時代でもあった。

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 お客様のインセンティブ(誘因、動機)を高め、時代に合った商売に繋げたことは事実だが、お客様は本当にお得だったかは疑問である。幹事さんには都合が良かったが、個々のお客様の視点に立てば動機も様々だ。安く飲みたい人もいれば、ゆっくり話したい人、食べたい人もいる。
 一般の相場として「飲み放題」は1時間千円。宴会2時間で飲み放題1時間半で千五百円、2時間2千円といった具合だ。ゆっくりしたい、あるいは食べたい人に時間制限を付けることは失礼な話だ。店側にとっても物理的問題、時間的問題をカバーするために人員を増やさなければならない。この「飲み放題」の極め付きはお客様にやらせる業態。こうなってくると、本来の飲食業の「おもてなし」ではなくなって来る。
 先日、NHKで欧米人らが夏休みを利用して来日し異文化に触れている番組を放映していた。彼ら(若い男女)が渋谷の街角で深夜にコンビニや自動販売機でお酒を買い求め楽しんでいる光景、これも日本が治安が良いから出来ることである。また、私もちょっと懐かしかった新宿ゴールデン街のスナックで「飲み放題」の日本酒で乾杯していた光景。彼らは「路上でお酒を飲めるのは日本だけ」といい、「飲み放題は日本以外にないんです」とインタビューに応えていた。
 阿部政権の成長戦略の観光業の拡大に一役買っている場面。日本酒を飲んで頂いているのは大変嬉しいことだが、何故かしっくりこない。日本人には当たり前と思っていることが、彼らから見るととてつもなく楽しいことであったり、娯楽であったりもする。勿論、真逆の場合も数々ある。私は欧米人のあのテレビの光景を見なかったら、こんな想像もしなかっただろう。
 それは紀元前に栄えたカルタゴ(現チュニジアの一部)の滅亡と帝政ローマの没落である。カルタゴは紀元前250年頃は地中海に覇を唱えた大国であったが、第二次ポエニ戦争で古代ローマに負けた。以来、軍事力は持たず経済力のみを頼りに経済大国になった。しかし、その経済力が仇となり、ローマによる度重なる無理難題を押し付けられ、時には力技で決着をつけられ、ローマの憎しみ(嫉妬、ひがみ、やっかみの感情)の前に何の力もなく、最後は地球上から消えた。カルタゴ通商国家は今の日本によくたとえられる。
 また、そのローマもゲルマン民族の侵入を食い止めることが出来ずに滅亡するのだが、詩人のユウェナリスが古代ローマ社会の世相を揶揄した詩篇に「パンとサーカス」の表現がある。パン(食糧)とサーカス(娯楽、見世物)は社会的堕落の象徴として後世にもよく話題にされる。
 古代ローマの市民がこの権力者らからの無償の「パンとサーカス」で政治的盲目に置かれ、政治的無関心の状態にされてしまう。ガス抜きや愚民政策によく使われる例えとして「卓越した名言」でもある。いずれにしても、私たちは歴史を学ぶのではなく歴史に学ぶべきということだ。
 歴史に学ぶという視点で、「国」をお店に「飲み放題」を娯楽(愚民政策)やパンとサーカスに例えれば、将来のお店の姿が自ずと見えて来る。社会に「飲み放題」が充満して以来、経済はずっとマイナス成長である。「飲み放題」で誰が「得」をしているのだろう。お客様もお店側もその関係者も最終的には「損」をしているだろう。もう、「飲み放題」や「食べ放題」という、人をモノで管理するような発想は辞めましょう。