夏バテ防止はウナギ。どうしてもこの時期は鰻屋を訪れたくなる。タレを使った調理法は江戸時代中期といわれている。蕎麦切りとともに江戸庶民文化の喰い物の花形になった。調理法は分からないが、713年編纂の風土記、その後の万葉集の中にも大伴家持による和歌に鰻が出てくる。
また、江戸時代の初期に家康は干拓事業を行ない、鰻は労働者の食事(雑魚)に串に刺されて屋台による立ち喰いという軽食であり、味付けは味噌や酢を用いていたようだ。江戸時代中期にタレを使った蒲焼きにするウナギが庶民に広がり「江戸料理」となる。「鰻屋でせかすのは野暮。蒲焼が出てくるまで新香で酒を飲む」などと当時の江戸っ子の決まり文句となっていた。
鰻との関わり合いは当時から様々にあるが、有名な話は平賀源内(先祖は信州•佐久出身)。夏場の売上げ不振に悩む鰻屋に請われて考案したという説の「本日土用丑の日」という広告キャッチコピーである。平賀源内は本草学者、地質学者、蘭学者、殖産事業家、医者、俳人、発明家であり、今でいうコピーライターのはしりでもあった。
さて先般、信州の富士見町から山梨県の北杜市にかけてドライブをした。右に富士山、左に八ヶ岳という高原風景を想像して欲しい。最近はオーガニックのお店や自然派レストラン等が数多く散在し、人気スポットとなっている。
十数年前に訪れたJR小淵沢駅に立ち寄り、近くにある鰻専門店「井筒屋」を訪れた。夕方五時頃着いたのだが、写真に見るように平日にもかかわらず長蛇の列であった。噂には聞いていたが、まず最近の信州の飲食店では見られない光景である。
暫くカフェで時間を過ごし、一時間後に同店を訪れた。並んでいる人はおらず、ホッとして店内に入ったが、また20人程のお客さんがウェイティングしていた。昭和初期頃の建物、屋根には「かめ塩のうなぎ」の看板、入口には紀州備長炭使用店を掲げ、店内は重厚感と趣があり、客席は北欧風のアンティーク家具のテーブルと椅子席を揃えた異空間であった。
待つこと40分ぐらいだろうか、漸く席に着くことが出来た。鰻の焼き時間が30分かかるということでオーダーは待ち時間中に取りに来た。二人のそれぞれのメニューは「うな箱二のう」(3,600円)と「一のう上」(3,500円)。舌鼓を打ちながら待った。
同店の暖簾の「う」はうなぎの「う」、うまいの「う」、運と嬉しいの「う」を表しているという。暖簾も面白いがメニューのネーミングも面白い。「うな箱二のう」はおそらく蒲焼と白焼きの鰻であろうと想像していた。案の定、一つの器(重箱)に2色の蒲焼と白焼きが分けて盛られていた。
蒲焼は濃い目のタレ、白焼きは山葵とネギ、白焼き用のタレであっさり召し上がる工夫がされている。
もう一つの定番「一のう上」は蒲焼の一色。勿論、両メニューとも吸い物、香の物は付いていた。同店のメニューは写真は一切使わず、全てイラストメニューで構成されている。蒲焼膳、白焼丼、かめ塩のうなぎ、岡持ち弁当、中入り丼、うな丼特上、玉子焼膳、とり照焼膳、その他に一品料理、う会席などだ。
老舗鰻専門店特有の味自慢にも繋がる「串打ち3年、割き5年、焼き一生」という重々しい雰囲気とお仕着せ的な雰囲気は同店にはない。焼き場を含めた厨房に男性5、6人がおり、てきぱきと手際よく動いていた(表の格子の隙間から見えた)。レジと店内全体を見渡すベテランの女性は店主の奥さんかも知れない。10代後半か20代前半の女性らも小気味良いおもてなしと笑顔を絶やさなかった。
「繁盛店にも色々あるが、味、メニュー、価格、雰囲気、サービスのバランスのとれたお店だなぁ」と感心しながら何か勇気を貰った気がした。一元の客として訪れ、文章にしておきたいと思った久しぶりのお店であった。
喰い味だけの視点に立つと、同店に勝るお店は信州に幾つかある。しかし、である。このお店に伝わってくる「熱情」。店主をはじめスタッフの「謙虚さ」と「素直さ」がそうさせるのだろうか。こだわりも幾つかあった。壺のタレもうなぎの脂肪分が入り、炭の灰も入るため、たんぱく質が溶解し乳化剤になり、丸みのある味に熟成されるというタレを使い、出し(昆布、鰹節)にこだわり、米は北杜市武川町の武川米を使い、器は西八代郡市川三郷町鴨狩津向の「つむぎ窯」の器を使って料理と一体化の温もりを提供、そして料理の最も大切な「水」は地下60㍍の地下水を汲み上げているという。
お店の雰囲気と食事にエキサイティングし、そのお店を後にしたのは9時を過ぎていた。帰宅後に知ったことがある。同店の建物は昭和2年に建てられ、ご先祖様が「井筒屋」として和菓子店を営み戦争で廃業となった。平成8年7月にうなぎ「井筒屋」として開店した創業18年のお店であった。