江戸時代の喰い物屋の話をしたい。ご承知のとおり江戸時代は庶民文化が花開いた時代である。その一翼を担う「蕎麦屋」もそのひとつ。一般的に江戸時代中期に「そば切り」が始まったと云われている。
江戸の蕎麦屋の老舗は、更科(さらしな)、砂場、藪と合わせて3系列を並べることが多い。今回触れるのはその更科蕎麦のこと。永坂更科布屋太兵衛が更科系列の本家筋である。歴史的には麻布十番にある3つの更科がある。創業は江戸時代寛政元年(1789年)と伝えられている。
その謂れは信州の織物の行商人をしていた清右衛門(下高井郡出身)という方が、江戸での逗留先としていた麻布•保科家に勧められ、麻布永坂町で蕎麦屋をはじめたとされている。開店に際し清右衛門は太兵衛に名を改め、開店時に「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」の看板を掲げたという。
更科(さらしな)」は、蕎麦の産地である信州更級(現長野市、千曲市、埴科郡坂城町の一部)に保科家の「科」の文字を組み合わせたものである。なお、信州更級は当時よりソバの産地であったため、他にも「さらしな」を名乗る蕎麦屋は存在していたようだ。
更科の特徴は、蕎麦殻を外し、精製度を高め、胚乳内層中心の蕎麦粉(更科粉、一番粉)を使った、白く高級感のある蕎麦(更科蕎麦)である。これがいつ頃からのものかは明らかになっていないが、1750年頃にはすでに存在していたようである。更科の特徴として打ち出されたのは江戸時代末期から明治時代のことと考えられている。
更科は明治10年代まで「暖簾分け」などを一切しておらず、(旧)布屋太兵衛の一軒のみでの営業であった。暖簾分けがはじまり、更科を冠した蕎麦屋が増え始めるのはそれ以降のことである。現在では東京都港区麻布十番にある3軒の更科のほかにも、都内の芝大門、神田錦町、有楽町などに暖簾分けをした更科の店がある。
さて、麻布•保科家に勧められて「更科蕎麦」が誕生したことをくだんで触れさせて頂いたが、麻布•保科家とは、飯野藩保科家のことで江戸屋敷が麻布にあった。更科蕎麦の総本家「永坂更科」は、寛政元年(1789)に主家である飯野藩第7代藩主保科正率から許された「科」の字を信州更級郡の「更」につけて「信州更科蕎麦処 布屋太兵衛」という看板にしたのである。
更科蕎麦の「御前」は江戸城大奥や諸大名の御用を務めたことから付けられた。更科(さらしな)についてもう一度触れるが、当時希少な一番粉(粗挽きでそばの実の芯〈胚乳〉が割れたものを細かく篩った白く細かい粉)が主体のさらしな粉と、小麦粉(江戸時代は蕎麦粉よりも高価)の混合粉(水切り二八蕎麦)を湯捏ねした白い蕎麦のことである。
従って上等な食べ物の意味の「御前」とも呼ばれていた。また更科(さらしな)は信州更級郡が蕎麦の集散地であった名残りで、科の皮を剥いで流れに「晒し」たことにも因んでいるようだ。
千葉県(下総)にあった飯野藩の祖は保科正貞。高遠城主の保科正光の弟である。正光は二代将軍秀忠の子、正之を養子に迎え、保科正之は会津藩の藩祖となる。元々保科家は信州•保科(長野市若穂保科)が発祥の地であり、正光の祖父•保科正俊は戦国武将で、保科弾正、槍弾正としてその名を馳せていた。旧保科家の菩提寺•広徳寺寺誌によれば、この保科正俊から6代遡る保科忠良の弟は京都南禅寺の開祖である普門大明国師とある。
また、信州の織物の行商人清右衛門のこともくだんに述べたが、その先祖の清助は飯野藩3代藩主保科兵部少輔正賢(まさかた)の時に、保科家ゆかりの信州(下高井郡)から江戸に出て来た。正賢は江戸上屋敷の長屋に逗留させ、清助に布屋太兵衛を商号とし晒布などの行商をさせ、信濃布を売る大物商に育てたと言われている。
信州との縁の深い「更科蕎麦」。このいにしえ「古」を知った千曲市の農家と長野市の農家の有志が「更科蕎麦」の復活•生産を目指して立ち上がった。今年は7町5反歩の畑に秋そば(信濃1号)を植え付ける準備に入っている。有志によれば「蕎麦の生産にはじまり、いずれ製粉まで手掛けてみたい」と話している。既に農業生産法人で六次産業認定事業者のメンバーも加っており、北信地方の「食」と「農」を繋ぐ新しい『潮目』になるのかも知れない。