飯山市のお寺で精進料理を、胡麻豆腐は逸品だ
食の重要性を説いた道元禅師の「典座教訓」

 あることから「精進料理」を無性に食べたくなった。以前永平寺の小庫院や善光寺の坊で食べたことはあったが…。そういえば、阿部孤柳著「日本料理の真髄」で、永平寺流の精進料理が現在の日本に精進料理として最も普及していると触れられていた。

   精進料理の一通りの知識を並べれば、仏教の戒律に基づき、肉や魚を使用せず、野菜や豆類、穀物等で作られた料理である。食に関連した方ならば一度は体験されていると思われるが、料理人の料理然とした雰囲気はまるで見受けられない。料理の見た目は一見地味。しかし、味に派手さはないものの、一品一品丁寧に料理が作られおり、少量のおかずを一口一口噛みしめながら戴くといった具合だ。

   永平寺の精進料理は、760年受け継がれた「健康の智慧」とも紹介されている。大庫院や小庫院という台所で、開祖道元禅師が親切に細やかに食に関する金言を示した「典座教訓」(てんぞきょうくん)に基づき、修行僧が料理を作る。永平寺では食事も大切な修行の一環で、食事を作るほうも修行、食事を食べるほうも修行というように、如何に「食」を重視していたかが伺える。

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 7つの大小それぞれ違うお椀に煮物や白和え、胡麻豆腐、揚げ物等が盛られ、食べ終わると全てのお椀が一つのお椀に収まる。この合理性、機能性、洗練性は見事である。また、食事後間際にご飯の器に少量のお茶が注がれ、器に残ったご飯粒は残らずさらえることになる。これもさりげなくの修行の一環である。
   さて、この永平寺(福井県)で修行されて来た飯山市神明町の大聖寺副住職がこの精進料理を提供してくれる。写経をしていると仲間と雪の降る12月下旬に大聖寺を訪れた。1570年に木曽義仲の臣、今井兼平の子孫である今井内記により造立され、飯山藩主の菩提寺としていた古刹である。寺内を案内され庫裏に通されたが、本堂の室中の間の襖八本に山岡鉄舟の雄渾な筆跡が残されていた。気になったので尋ねてみると、山岡鉄舟が明治初年に正受庵再興のため来飯し、同寺に滞在していた時に書かれたものという。
   伊達邦典住職が大聖寺の由来や飯水の歴史や現在の状況をお話された後に、伊達広道副住職が精進料理の一通りを説明してくれた。精進料理は写真で見るように見た目は一見地味である。食事の前に「いただきます」と一般の方はいうが、曹洞宗では前述した通り、食事(じきじ)作法というものがあり、修行僧はその作法に則って食事を頂く。食事の前に「五観の偈」(ごかんのげ)をお唱えした。


   7品がお膳に盛られている。手前右がうなぎもどき、その横が白和え(人参、椎茸、こんにゃく、さやいんげん)、手前左が煮物(椎茸、人参、えんどう豆、がんもどき)、写真中央が胡麻豆腐、その左が和え物(ほうれん草、薄揚げ、もやしをすり胡麻で和えている)、後方右は果物(擬制豆腐、りんご、みかん)、後方左は揚げ物(なすの田楽、ししとうの素揚げ、車麩の唐揚げ)である。この他にお煮かけそばが提供された。

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  食べる順序は問わないようだ。参加者の女性の一人が「こんな美味しい胡麻豆腐食べたことなーい」と声をあげた。一品一品丁寧に料理されている。一口一口噛みしめて食べるとはこのことかと思いながら、もうひとつ感心したことは、野菜の味と旨味がうまく奏でられていたことだ。味には、甘味、酸味、辛味、苦味、塩味の他に「旨味」がある。出しは調味料を一切使わずに、昆布だしのみと伊達副住職は話されていたが、本当に旨かったというか、またしても旨いという感じで、今までに味わった精進料理では最高の味であった。永平寺の修行も相当のものと伺えたし、料理の想像力も逞しいと思った。こちらでの食事は1人三千円となっている。
   ここで、五観の偈については触れないが、要するに「全てに感謝していただきましょう」という意味である。お釈迦様が悟りを開き仏教の教えを説く前は、漁や肉を食べていたというし、道元禅師自身も宋に渡る前は「食」に対して誤った認識を持っていたことを自省している。いま、料理人にももう一度「精進料理」を再研究し、再発見し、大転換期の料理と装幀とその提供に活かして欲しいと思うのである。和食が無形文化遺産に登録されて、会席料理だ、懐石料理を、と浮かれて欲しくないのだ。大転換期のヒントは意外と身近なところにある。


煮物(椎茸、人参、えんどう豆、がんもどき)白和え(人参、椎茸、こんにゃく、さやいんげん)うなぎもどき胡麻豆腐揚げ物(なすの田楽、ししとうの素揚げ、車麩の唐揚げ)和え物(ほうれん草、薄揚げ、もやしをすり胡麻で和えている)お煮かけそば